| 「流された血」
一度くらいは身体中の血が全部入れ替わったろうか?
そのとき俺はそんなことを考えていた。普通とはいえない。むしろおかしな部類に入るだろう。
だが普通でないのは考えだけではなかった。場所も、服装も、そしてこれからやろうとしていることも普通と は言えなかった。俺はヴェスパーの娼婦街の片隅で、薄汚れたローブを着て、ある商人を暗殺するために待ちか
まえていたのだ。別にそいつに恨みがあるとか復讐しようとしているわけではなかった。今日の糧を得るために 俺はその仕事を請け負っていた。俺は暗殺者だった。
ヴェスパー・・・ブリタニアの商業の中心地として陸路でミノックやコープ、水路で他の島からの交流地点と なっている。連続した富の流入により陽気さを持ちその芸術性に過去の歴史を見ることができるが、その表面化
には退廃と欺瞞が沈んでいる。
要するに暗殺者向きの街だ。この街の実力者は多かれ少なかれ暗殺者と関りがあるだろう。俺はこの街が反吐 が出るほど嫌いだった。だがこの町以外では生きる術がないのも事実だったのだ。
一度くらいは身体中の血が全部入れ替わったろうか?
なぜそんなことを考えていたのか、理由はいくつかある。まずひとつは自分の中に流れる血が嫌いだった。血 を入れ替えることなどできやしないのに、できることならそうしたいと望んでいた。だから訓練は好きだった。
どんどん血が流れ落ちていくような気がしたからだ。
もうひとつは身体中に残された数多の傷跡のためだ。まだ治りきっていないものもいくつかある。傷のほとん どは訓練によってついたものだ。暗殺者が実戦で傷を負わされる時は死ぬときだといっても過言ではないだろう
。
そして最後のひとつは、なんのことはない、怯えていたのだ。だから他のことを考えて気を紛らわせていた。仕 事を自分1人きりで請け負うのはこれが始めてだった。いつも育ての親と一緒だった。
"隼の"ウェイル、これが育ての親の名だ。その道ではそこそこ知られた暗殺者だった。8歳のときに拾われ、 それから10年暗殺者として育てられた。別にウェイルも俺を暗殺者として育てたかった訳ではないだろう。た
だ彼に教えられることはそれしかなかっただけだ。それしか生きる術を知らなかった。
つい先日ウェイルは死んだ。暗殺者らしいといえば暗殺者らしい、無様な最後だった。仕事に失敗し衛兵によ ってたかって八つ裂きにされたのだ。衛兵が去ったあともまだ息があった。そして私にこう言ったのだ。
誇りを持って生きよ、と・・・。
ウェイルの死は悲しかった。俺にとって父であり、師であり、唯一の仲間であったから・・・。しかしそれ以 上にこの言葉がこたえた。誇り・・・それを持つことが暗殺者に、俺に、なんの意味をもたらすのかまったくわ
からなかった。ウェイルは、父は、誇りを持って生きていたのだろうか?
そもそも暗殺者に誇りなどあるのだろうか?いつかは俺もウェイルのように衛兵に見つかって八つ裂きにされ 、汚水の中で死んでいくことだろう。そんな一生に誇りなどあるのだろうか?
ふいにざわめきが戻ってくる。遠くのほうから聞こえる女たちの嬌声、酔っ払いが言い争う声。
今は仕事に集中しなければならない。今日を生きるために、なにより誇りを持って生きることについての意味 をもう少し考えたかった。この仕事に失敗したらもうそんなこともできなくなるだろう。それもまた、いいのか
もしれないが・・・。
手首に皮紐でくくり付けたスティレットを確認する。刃がなく先端が針状になっている短剣の一種だ。手をひ ねると手のひらに入るようになっている。切っ先には緑色の液体が鈍く光っている。ナイトシェイドから作る毒
薬の一種だ。人間なら15秒、巨人族ですら1分と持たないだろう。この他に胸につけたダガ−が3本、これが 俺の身を守り命をつなぐ全てだった。
懐から懐中時計を出し確認する。これは父の形見のひとつだ。これをくれたとき父は言っていた。これがな、 こんなちっぽけなものが俺達の命より高い・・・。そう言って苦笑しながら俺に放ってよこしたのを覚えている
。
そろそろだな・・・。誰にともなくつぶやく。怯えている自分がわかる。手も足も震えている。
遠くから声が聞こえてきた。でっぷり太った腹を揺らしながら歩いてくる男と、剣を腰にさした傭兵風の男。 奴に間違いない。ここ数日動きを調べてまわっていたから奴の顔を忘れるはずもなかった。娼婦の話をしている
ようだ。自分がいかに娼婦をいたぶったか、傭兵に聞かせて喜んでいる。傭兵の方は下卑た笑いを浮かべながら 適当に相槌を打っている。
ふん、下衆が・・・。心の中でつぶやき小瓶を取り出す。中には青い液体が入っている。いわゆる麻薬なのだ が、血苔から精製するこの薬は、副作用がなく常習性も大したことはない。一般にはこれを服用すると機敏にな
り頭が爽快になるといわれているのだが、実際には視神経を刺激し、動体視力を飛躍的に上昇させる効果がある 。それを一気に飲み干した。
勝負は一瞬でついた。
2人が通りすぎたあと俺は飛び出した。後ろから商人の頭をつかみ、首を右に捻じ曲げ、首筋から一直線にス ティレットをさしこんだ。心臓に届いた感触がある。傭兵の方は後ろを振り向き何か叫ぼうとしたが、それは果
たせなかった。声を出そうとした瞬間、俺の手を離れたダガ−が奴の首にすいこまれていた。俺は近づき一気に ダガ−を引き抜いた。傷口からひゅぅっという音を立てながら男は倒れた。
後には二つの死体が残っていた。さっきまでは愉快そうに話していたのに、今はただの肉の塊だ。半開きになっ た口が滑稽にすら見える。汚いな・・・。俺はそうつぶやき血まみれのローブを商人にかけた。そのまま銀行の
方へと向かう。身を隠すのは雑踏の中が1番だ。朝まで待てば誰にもとがめられることはないだろう。この街は そういう街だ。
銀行の前につくと朝方だというのにまだ大勢の人がいる。色とりどりの服を着て、それぞれ顔に笑顔を浮かべ て楽しそうに話している。黒いドレスをまとった少女、あれはどこかの貴族の令嬢だろうか?同じく黒い服の男
が寄り添っている。その笑顔は俺にはついぞ縁のないものだった。俺と彼らの間にはどういう違いがあるのだろ う?彼らは誇りを持って生きているのだろうか?そもそも心の底から自分に誇りを持って生きることができる人
間などいるのだろうか?
ぽんと肩をたたかれる。思考が中断した。ニヤニヤ笑っている男がそこにいた。よくやったなミスト、マスタ ーもお喜びだ。そいつはそう言った。暗殺の仲介人だった。次の仕事がある。報酬の残りも払わなきゃならんし
な。そう言って俺の手を引いた。ふん、わかったよ。おれはそういうと黙ってそいつについていった。
To be continued
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